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「五千人のための奇跡」マルコによる福音書6章30~44節 2026年5月3日 スティーヴン・クンケル宣教師

五千人のための奇跡 マルコによる福音書6章30~44節 赤塚バプテスト教会 朝礼拝説教 スティーヴン・クンケル宣教師

みなさん、おはようございます。福音の言葉をみなさんと一緒に学ぶことができますことを感謝します。先日のイースターの礼拝では、みなさんとキリストの復活を祝うことができたことも感謝します。今週はゴールデンウィークです。私はこのゴールデンウィークの期間、良い旅をしたいと考えていますが、知り合ったことのないノンクリスチャンに福音を伝えることができる旅ができたらと願っています。なぜかというと、キリストは、私たちを罪から救い出すためにこの世界に遣わされました。世界中で良い話、大事な話はいろいろありますが、最も優れている話はキリストの話です。奇跡の話はいろいろありますが、聖書にも奇跡の話が書かれています。ある一つの奇跡の話は聖書の中の四つの福音書すべてに書かれています。5千人の奇跡の話です。それが今回、教会のみなさんと分かち合いたいことです。キリストがこの世に来られたのは、ただ奇跡を行われるためでなく、奇跡を通して、人々が罪から救われるためでした。救われるだけでなく、神さまを深く愛するためでした。キリストが弟子たちと一緒にガリラヤに行かれたとき、人々のためにその素晴らしい奇跡を行われたことを教会のみなさんと分かち合いたいと思います。今日の説教の聖書個所はマルコによる福音書からお話ししますが、この話を深く学ぶために、マルコによる福音書以外の別の福音書からも引用します。楽しいみ言葉の分かち合いとなるように願っています。このメッセージを伝える前にお祈りします。

祈り

ではみなさん、マルコによる福音書6章30~32節をお読みします。

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
(マルコ6章30~32節)

使徒たち(弟子たち)は、自分たちが行った伝道活動をキリストに報告しました。その後、キリストは、弟子たちと一緒に寂しいところに行って休むことにしました。ルカによる福音書には、ベトサイダという町に行かれたことが書かれています。

使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
(ルカ9章10~11節)

キリストは、ベトサイダでも神の国について語り、いやしを行われました。これが、キリストと弟子たちの最初の頃の伝道活動の様子です。しかし、キリストは、働きすぎて、疲れてしまうことがないように休むことができる場所を求めて、弟子たちと一緒に船に乗って出かけました。日本の社会でも過労で疲れ果てている人たちがいます。休まずに働くことは体調には良くないことはわかっていても、休む場所がないと感じているのではないでしょうか。アメリカの社会も同じです。しかし、キリストは休むことを大事にされました。私たちが、たとえ仕事や果たさなければならないものがあって、自分の力でやり遂げることができなくても、それでも神さまは私たちを変わることなく愛し、受け入れてくださる方です。キリストはこのように言われました。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイ11章28節)

私たちが神さまのための働きを行っているなら、休むことはとても大切です。キリストは私たちを休ませてくださる方です。福音を伝える働きをしていても、説教していても、アウトリーチをしていても、休むことは必要です。そういうことで、キリストは弟子たちと一緒に船に乗って休むところを探しに行きました。では、次の箇所を読みます。

ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
(マルコ6章33~34節)

休むところを探そうとしましたが、たくさんの人たちがキリストと弟子たちのところに会いに来ました。キリストが、その人たちをご覧になると、羊飼いのいない羊のような有り様でした。そこでキリストは彼らを深く憐れみ、彼らのために福音を伝えられました。マタイによる福音書では、このようなことが書いてあります。

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
(マタイ14章13~14節)

キリストは、彼らを教えられただけでなく、癒やされたということです。休みを取ろうとしても、自分たちには、まだなすべき働きがあることを知られたのです。次の聖書の言葉を読みます。

そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
(マルコ6章35~37節)

ヨハネによる福音書では、このように書かれています。

イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
(ヨハネ6章5~7節)

キリストはフィリポに向けて言われた理由は、フィリポ自身がその町の出身だからでした。
マルコによる福音書の言葉を再びお読みします。

イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
(マルコ6章38節)

キリストに答えた弟子はペトロの兄弟アンデレでした。少年が五つの大麦のパンと二匹の魚を持っていることに気がつきました。アンデレ自身はキリストが奇跡を行われることを信じてはいましたが、どのようにして五千人の人たちに食事を与えられるかが気になっていました。
ところが、弟子たちが気づいていないことがありました。それは、人間の思いを超えたあらゆる難しいことも神さまであるキリストにとっては可能であるということでした。

そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 パンを食べた人は男が五千人であった。
(マルコ6章39~44節)

マタイによる福音書だけが女性と子供を別にして、男が5千人ほどであったと書いてあります(マタイ14章21節)。つまり、大勢の男の人たちは互いにパンと魚を食べました。そして残りの食べ物は12の籠の中にいっぱいになりました。
この奇跡を見て、人々はとても感謝しました。もちろん、パンを食べた人たちも喜んでいました。ヨハネによる福音書には、このように書いてあります。

そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
(ヨハネ6章14~15節)

イエスさまの行った奇跡の話を一緒にお聞きしましたが、この話には、深い意味があります。神の国がこの世界に現れたことをお示しになったのです。キリストは人々に神の力を表されるためだけでなく、私たちが罪から救われるために遣わされました。この箇所から読んだとき、思い出した例え話があります。パン種の例え話です。それはマタイによる福音書13章33節です。

「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」。
(マタイ13章33節)

神の国は、初めはパン種のように小さいですが、膨らんでいくのです。そのように、福音の言葉はどんどん広がっていくのです。そして、キリストがこの世界に再臨されるときには、キリストは永遠に王様として現れるのです。パンを食べた五千人はキリストをこの世の王様にしようと考えました。彼らにとって、キリストは、自分たちを罪から救う方ではなく、アラジンの魔法のランプの魔人のような者と考えていたのです。しかし、神さまはそういう方ではありません。
昔、パラグアイで働きをしている日本人の元牧師が教えてくださった言葉を思い出しました。空腹の人たちがいます。けれども、それは物質的に空腹なのではなく、霊的に空腹の人たちです。福音とは、私たちを霊的に満たすパンと魚です。私たちが伝えている福音の言葉はそのパンと魚なのです。私たちは、イエスさまを信じておられない方々を教会に招待して、霊のパンをお渡しするのです。この教会にはバザーがあり、ランチが用意されていますので、食事をすることができます。けれども、食べても時間が経つと、また空腹になってしまいます。キリストはある時、このようなことを言われました。

この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
(ヨハネ4章13~14節)

井戸の水は飲むと、その時は喉の渇きはいやされます。けれども、時間が経つと、また喉は渇いてしまいます。しかし、キリストが与える水はいつまでも渇くことがないのです。キリストが与える水とは、霊的な水であり、それは福音のことを言っているのです。私たちが、福音を聞いて、キリストを救い主として受け入れたら、その人は罪から救われるだけでなく、新しい人生に変えられるのです。渇くことのない、満たされた人生に変えられるのです。
ヨハネによる福音書3章16節には、このようなことが書かれています。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネ3章16節)

キリストを信じるなら、罪の中を迷っている人は、キリストにあって救われるようになり、キリストにあって永遠の命を受けるようになります。ヨハネによる福音書6章(ヨハネ6章22節以下)には、命のパンのことが書いてあります。命のパンとは何であるかを、今度の説教の機会に分かち合わせていただきます。命のパン、そのパンを食べる人は決して空腹になりません。
お祈りします。

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